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私は当時では珍しいシナリオが学べる専門学校に通わせてもらいました。片親で裕福ではないにも関わらず、母親は文句ひとつ言わず学費を出してくれました。

 

今思い返してみれば工業系の高校を卒業したのですから、ある程度の資格は取得していたので就職して母親を助けていく選択肢を取らなかったのだろうと若干の罪悪感もあります。ですが当時はどうしても映画関係の仕事に就きたかった事もあり、その専門学校に通う事が自分の全てと浅はかに思っておりました。

 

 

しかし卒業すれば、大手も中堅もも小手も映画関係の仕事は大学卒業が必須でした。めげずに面接を繰り返し就職も決まらないまま卒業して、「無職」という肩書で新生活をスタートさせました。

 

 

そこからのらりくらしとして2ヵ月ほど、母親からアルバイトくらいしろという当たり前の一言。

 

 

2ヵ月の無職期間で精神が少しばかり蝕まれた私は、とりあえず好きなものに囲まれた仕事に就きたいと思い、数社の書店の面接を受けました。

 

 

若さのお陰か面接した数社が受かり、アルバイト生活が始まりましたが、書店業は結構な力仕事。怠け癖のついた私の体力は毎日ついていくだけで精一杯でした。なんとか1か月勤務することができ、給与明細を頂きました。

 

 

「あれだけ働いたのだからそこそこ・・・」と淡い期待は額面をみて吹き飛ばしました。初任給10万円以下・・・当時の書店勤務の時給は690円でした。

 

 

働く事・稼ぐ事が如何に大変かを切実に感じることが出来ました。私がアルバイトをはじめてからすぐに母親が自宅の階段から足を滑らせ、右足を骨折。一年間仕事を休まなければいけなくなり、母親は失業となりました。

 

 

失業保険が若干でるものの、二人で生活するには心許なく。私は意を決して仕事をもうひとつ増やし、朝から夕方までは書店のアルバイトと夜は映画館の常駐警備の2足の草鞋を履く事になりました。ふたつの仕事をすることで母親の回復までは苦しいながらも生活は続けられ、母親も一年近くかかりましたが無事に回復。

 

 

再就職の方もできました。私は掛け持ちを5年ほどして、書店の正社員に採用されました。ただ夢が諦められず、今は退職してしまい、フリーランスで様々な仕事をさせて頂いております。

 

 

若い頃は自分が優柔不断で親に迷惑をかけてお金に困る時期も長くありましたが、そこを抜け出すにはやはり決意と後ろを振り向く暇を持たない事だと今は思います。

2016年11月6日 / rryng